◆ 敗戦真相記 ( 6) どのようにして戦いに敗れたのか 


QUEENS RYCHE ~ Silent Lucidity (1976-1991)


永野護著敗戦真相記
2002年7月15日


どのようにして戦いに敗れたのか


以上述べたような基本的な原因と、これを育成した諸事情によって、この戦争は発生したのですから、その発生原因それ自体がすでに敗北の要素を内包しておるといっていいでしょう。種が腐っていたのですから、良い樹が育つわけはない。換言すれば初めから負けるべき戦争にまけたのでありまして、そういう呪われた宿命を持った戦争であったということを、我々は充分に知るべきであります。


すなわち一番初めに申し述べたように、この戦争の基本原因というものは、各種の政治的成功に慢心した軍部指導者が、我が国の国政の根本方針を、各国共存共栄の自由通商主義におかず、我が国一国を中心にした自給自足主義に置いたところにあるのですから、我が勢力下に帰した土地の経営が、自ずから日本本位となり、その土地の原住民の福祉を二の次にするようになったのは当然のことで、さればこそ満州国を拮据(きっきょ)経営すること十数年、形の上から見れば世界植民地史上、類いないくらい立派な成績を挙げたにもかかわらず、ついに大和民族はこの満洲人の人心を把握することさえできなかったのです。


現に私の極めて懇意にしている、ある満州人は、(62) 満鉄に十数年も勤め、日本語も下手な日本人よりもむしろ流暢なくらいで、その感情からいっても生活様式からいっても、全く日本人化した男ですが、その男がある日、私と酒を飲みながら酔いの廻った頃に突然、「永野さん、こうやってあなたと御懇意に御交際を願っていますが、万一日本がロシアと戦争でもするようなことがあったなら、私は遺憾ながらロシア側に行きますよ」 と、こう言い出した。私はびっくりして「なぜ、そんなことを言い出すのかね」と問いますと、「実は日本人にいろいろ御世話にもなっているから、こうやって今日まで辛抱しておるのだけれども、本当に腹に据えかねることがある」と言って、四つも五つも日本人の満州人に対する仕打ちの冷酷な例を挙げたのです。


聞いてみると、その指摘するところは皆事実であって、弁解や否定の余地がないことばかりなので、「まあまあ戦争になるようなことはないだろう。また、あればその時はその時のことさ」と言って別れたが、この男ほど日本人化していない満州人がどういう感情を抱いているかということは想像がつくわけです。だから今度いよいよ終戦になって、ソ連軍が侵入してきた後で邦人がいかに満州人から冷酷な取り扱いを受けているか、思い半ばにすぎるものがある。現に、それを裏付けするような悲惨なニュースが毎日、我々のところに伝わってきているのです。


こんな例は単に満州ばかりじゃない。フィリピンでもタイでも、いたるところで起こっている。例えばフィリピンのごときも数十年間、独立運動をやって、ついにその目的を達し得ない。それを日本人が行って本当の独立を与えてやったのだから、フィリピン人はさぞかし日本に全幅の好意を寄せていると思い、また実際、感謝しているのだと我々は聞かされておった。形の上から言えば、フィリピンの大統領が日本に謝恩使という形でやってきて、日本の代表者といわゆる長夜の宴を張って大東亜の黎明を寿いでいたが、事実は全くこれと正反対になっている。例えば (63) 山下奉文大将の言として伝えられるところによってみても、フィリピンにおける日本の敗因中、フィリピン人が日本人に協力せず、ことごとにアメリカ人と協力したことが、日本の作戦に齟齬(そご)をきたした大きな原因であると告白しています。


これは日本の指導方針が日本本位であって、フィリピン人の福祉を第二義的にしか考えていなかった当然の報いであって、不思議でもなんでもない。例えば、日本で綿が要るとなると、フィリピンの重要な食糧である米田を無理矢理に強制して綿を作付けさせるようなことをする。しかし、フィリピン人にとっては米は生命の糧ですから、これを抜き取られてはたまらない。万事、こういう行き方がフィリピン人の人心を把握し得なった原因であると思われます。


また、タイにしてみても、長い間イギリスやフランスの勢力に圧倒されて奴隷扱いを受けておったのが、日本が行って初めて完全な独立を回復し得たのですから、ここからも日本に対して親善使節がやってきて、いわゆる長夜の宴を張って、タイの前途を寿いだようなわけで、タイの人心は挙げて日本に帰服していることだろうと思っておりましたところ、今度、戦争が済んでから英米側の発表したところによりますと、日本にいわゆる謝恩使としてやってきた当の(タイの)総理官邸の地下室が、英米側の諜報機関の本部であり、階上で聞いた軍機の秘密はすぐその地下室から、英米側にどんどん短波で打電されておったとのことがわかって、日本人はむしろ唖然としたような次第です。


すべてこういうことは日本本位の自給自足主義の当然の結果ですが、それと同時に行政の最末端に行く日本の役人の人柄によるところも大きい。例えば満州の例にしても、上のほうの日本の役人の中には相当に満州人の福利を考える人もいるが、そう言う人は数が少ない。一番数の多い末端の日本管理は具体的に言えば巡査です。これがろくでもない人物が多く、例えば満人経営の料理屋なんかに行って無銭遊興をする。あまり来るからというので三遍に一遍は嫌な顔をすると、夜中に来て臨検する。ここに何かスパイがいるに違いないというような理由で、夜中にたたき起こして家探しをする。それも本当に嫌疑があって調べるなら仕方がないが、明らかに嫌がらせなんです。そういう例はいくらもある。だから到底、日本人とは一緒にやれないという告白をよく満州人はするのですが、日本人だけが特権を持った民族であるという神国独善思想が、こういう末端管理の行動にまで現われていたわけであります。


こういう事情ですから、日本人の勢力地域が拡大すればするほど反対に日本の戦力は脆弱(ぜいじゃく)になるという奇妙な理論が成り立つようになって、ちょうど下手な石工の築いた石垣のようなもので、いたるところ穴だらけで、どこを突いても、すぐ総崩れとなる形勢になっていた。日本国民は、形式的に日本の占領地区が広がったのを日本が強くなったのだと思って、(64) 「紀元は二千六百年 を謳っていたのですが、事実はむしろ反対の結果となり、いたずらに遠方のほうに兵を出したことが、日本の「生命とり」となってしまったのであります。




要するに第 1 の敗因は、日本の戦争目的が東亜の諸民族を納得させて、随いて来さしめるような公明正大な目標を欠いておったところにあります。元来、この戦争目的如何が戦争の勝負に大きな影響を与えるということは、一見、そんな馬鹿なことはないという風に考えられる。戦争目的などというものは売薬の広告みたいなもので、薬の効き目には何の影響もないというように考えられるのですが、実は、この戦争目的なるものが戦争の勝負に対し如何に大きな影響を与えるかということは、第一次欧州戦争後、(65) ルーデンドルフがその回顧録に「第一次世界戦争は、ドイツの戦争目的に、世界各国を納得せしめる公正な目的を欠いていたために、ドイツの負けとなったのである。だから、この次に戦争するときには、必ずドイツがやむを得ず干戈(かんか=武器)をとるのだということを、世界各国民をして納得せしめる、公明正大な理由を求めらなければならない」 こう書いているのでもわかります。


ところが実際問題としてみますと、ドイツにしても日本にしても、今度の戦争目的はことに不明瞭でありまして、日本では、満州事変、支那事変、大東亜戦争と、戦争が段階を変えるごとに戦争目的が変わってきた。大東亜戦争の中途で、大東亜共栄圏の (66) 「四大原則 いうものが発表されましたが、これは (67) 「大西洋宣言を摸作した一種の作文にすぎないのであって、日本人ですらこれを暗記しているものは極めて少ないぐらいです。実際、あの「四大原則」を達成するために、応召したり、国債貯金に精を出したり、米を供出した国民が幾人あるでしょうか。まして当の相手の占領地の国民がこれを読んでも、これなら日本に協力しなければならないという気持になるはずがない。皆肝で笑っている。例えばソ連が、ドイツの侵略戦争から「祖国を護れ」という極めて直截簡明な言葉を戦争目的として掲げ、何が故に戦うかという意味を、1 億 6千万人のロシア人の心魂に強くぴたっと焼き付けているのに較べて、数千マイル離れているインドネシア民族のために、自分らの良人(おっと)の命、子供の命を献げなければならないということを納得していた日本国民はほとんど一人もなかったというのが実情でしょう。いわば日本の戦争目的大東亜諸国を納得せしめなかったばかりでなく日本国民をも納得せしめ得なかったのでありまして、これが、今度の敗北の第 1 の原因であると思うのであります。




次に、第 2の敗因として日本の軍部自己の力を計らず敵の力を研究せず、ただ自己の精神力を過大評価して、これに慢心したことを挙げなければならない。これまた戦争の原因であるとともに敗北の原因になっております。日本の軍部がもう少し敵の力を研究しておったならば、最初から戦争にはならなかったであろうということは前述いたしましたが、既に戦争になってしまった後においても、この態度は少しも変わらず、依然として敵の力量を研究しないで一方的に日本の戦略ばかりを考えていたのです。


この敵の力を研究するという点において、世界的に有名なのはイギリスの諜報網であります。第一次欧州戦の時には (68) ノースクリフが長官となりまして、世界各国のすみずみまで、有名な諜報網を張りめぐらし、時々刻々の情報を手に取るがごとく集めて、これを作戦外交の資料となし、それに対する宣伝対策を適当に打っていったために、ヒトラーをして「第一次大戦はノースクリフの紙の弾丸のために敗れた」と嘆ぜしめたぐらいですが、今度の戦争においても実によく日本の情報がわかっていたらしい。これについては、驚くような実例がたくさんあるのです。


例えば日本で虎の子のように大事にしている石油のタンクを、敵機が爆破する場合に、チャンと本物の石油タンクばかりに爆弾を落として、せっかく偽装してずらりと並べてある水タンクのほうには 1つも落とさないような事実もありましたし、また青梅地方にドラム缶に入れた、とっておきの石油を持っていったとき、それを一昨日の晩持ってくると、今日はもう完全に爆破されたというようなこともありました。それなどはその近所に住んでいる日本人すら何も知らないで、爆破されたあと初めて、ああ、あすこにドラム缶が来ていたのかと気がつくくらいで、そのスパイ網の巧妙な張り方はただもう驚くほかはないのです。


また、日本で初めて噴進式の飛行機を、今年(昭和 20年)の 6月か 7月頃に、小泉の (69) 中島飛行機の工場で完成したのですが、この時たった 1 日、数時間、格納庫から外に出しておいたところ、それをもうちゃんと写真に撮ってあり、今度の終戦後、米兵から「今年の何月何日にロケット機を完成しただろう。その時の写真がこれだ」 と言って見せられた時には日本の関係者は全く度肝を抜かれたそうです。


また、九州の太刀洗あたりの基地に、日本の飛行機が全部勢揃いして南に飛んでいくことになっていた当時、その基地を見下ろすことのできる山の上に小さな神社がありまして、そこには神主と巫女がいたのですが、月に一遍ずつ、そこに下の村からお供え物があがっておりました。ある時、たまたま神主が留守のときに巫女がお供え物を受け取ったが、その上に饅頭が乗っているので、そっとその饅頭を取ったところ、その下から金貨がザラザラと出てきたのです。驚いた巫女は早速駐在の巡査に届けたために、それからそれへと足が付いて調べた結果、驚くべきことにその神主がスパイで、奥の院の神社の地下室に短波の送信機を置いて、下の基地にいつ何機来て、どこに飛んでいったということを一々米英側に報告しておったということがわかったのであります。神主とスパイという対照が妙ですが、そういう類例は至るところにあり、日本の実情は先方にすっかりわかっていたのであります。


ところが反対に日本のほうはどうかというと、ちょうど日本でいう「キング」あたりに相当する「ライフ」というような大衆雑誌、それも数カ月遅れたものを中立国を介して手に入れて、アメリカではこんなことを考えているということを種にして戦争しているのですから、その勝負はもう初めからわかっていたというべきでしょう。


日本の諜報機関が何故こんなに無力であるかと申しますと、そういうトレーニングが平素からできていないということ、資金的な力が足りないということがその原因でありますが、根本的には相手からの事情を研究しなければ戦争ができないということに対する認識が足りないということに帰着するのです。


アメリカの諜報機関はイギリスほど有名ではないけれども、今度終戦になってやって来たアメリカの兵隊に会ってみると、実に驚くべきほど日本の事情を知っていて、不勉強な日本の官僚はすっかり音をあげてしまった。米国においては、平素は日本語の研究機関などはたいしてなかったのですが、大東亜戦争になってから、さあ大変だというので、あらゆるところに日本語の研究所をつくりまして、あのむずかしい漢字を覚え、日本の中学校や女学校の教科書をたくさん第三国を通して輸入して、それによって日本の歴史、地理から倫理まで研究して、日本人はどういう人情であり風俗であるか、産物にはどういうものがあるかということを十分呑み込んでから、それに対する手を打ってきたのです。


ところが、日本のほうはそれとまるで正反対で、大して外国の事情を研究しなくてもいい時には、中学校や女学校に英語を正課として置いて、どんなに英語の嫌いな者でも英語を知らなければ卒業させないということを強制しておきながら、本当に英語が必要になった時には、反対に敵性語だといって英語を教室から駆逐してしまった。極端なことは、英語新聞を読んでいるとスパイだというので殴ったりして、停車場のローマ字すら消してしまった。米国のやり方とは全く正反対です。


戦争になってからこそ英語を研究しなければならないのに、逆に英語を禁じてしまったものですから、日本人のやることがいかに不合理で見当違いかということが、それをもってもわかると思う。すなわち相手方の力量とか実情というものを研究しないで戦争をしたのだから、これではちょうど、めくらと目明きが撃剣 (剣術) をするようなもので、向こうは急所を狙って打ちこんでくるのに対し、こっちは盲滅法に、ただ刀を振り廻すにすぎないので、この勝負は誰が見ても明らかで、到底勝ち目はなかったのです。




第 3の敗因は、軍の指導者が国民の良識や感覚を無視して、ひとりよがりで自分のいいと信じたところに国民を連れていこうとした点にあります。これは最初に戦争開始の原因として世論本位の政治を行わざりし事実を述べましたが、戦争が始まった後の戦争遂行上の方策に対しても、やはりそれと同じような筆法を用いましたために、国民は最後まで戦争を納得せず、その結果、いわゆる国を挙げての総力戦という実質が最後まで整い得なかったのです。


すなわち、何が故に戦争をしなければならないのか十分理解せしむることなくして、法律規則と権力でもって強引に押し切ろうとしたために、かえって国民の間に一種の反感的な気分が起こってきた。もし国民全体が本当に自分たちが働かなければ日本の国が潰れると自覚し、真剣に働く気になったなら、生産能力はおそらく倍加しただろうと思われますが、これに失敗したことが日本の軍需生産力を落とした大きな原因で、終戦前後の軍需工場の出勤率の異同が、この事実を最も具体的に証明しております。すなわち、本年(昭和 20年)8月 15日前における日本の各重要産業の出勤率は、たとえそれが戦災という特殊事情があったにしても、また空襲というエクスキューズがあったにしても、その工場が動かなければ、日本が戦争をやっていけないというほど重要な関係にある工場にして、なお 2割か 3割という情けない低率を示しておりまして、日本全体としても 6割には達しなかったでしょう。


ところが、8月 15日後となり戦争が済んでしまって、いわばそんなに出勤をやかましくいわなくてもいいような時代になってくると、反対にこれらの工場が俄然 90%、95% という非常によい出勤率を示すようになったのであります。これは一見妙な話でありまして、要らぬ時には出勤率がよくて、要る時に出勤率が悪いという、辻褄の合わないことになっているのでありますが、この原因は極めて明瞭であって本当に物の要る時、工員を工場に出勤さす推進力となったものは、本人の納得しない権力、規則、あるいはお説教であり、(70) 徴用(71) 学徒動員というような鞭(むち)の力で国民を工場に追いやったのですが、8月 15日以後になりますと、問題が端的に国民の頭に浮かんできて、怠けて馘(くび)になっては生活が脅かされるというので、自発的に進んで出勤するようになったことが、かかる出勤率の変化を招来した理由なのです。


戦争中、本当に働かなければならなかったときに肺結核だとか、胃潰瘍だとか、あるいは親が怪我をしたから看護のため国に帰らなければならないとか、それぞれ、もっともらしい理由を付けて工場を休んだものが、8月 15日以後、急に出勤し始めたのは、決してその肺結核が治ったためでもなければ、胃潰瘍が治ったのでもない。また、はしご段から落ちた親の看護に行く必要がなくなったのでも何でもない、ただ出勤しないと大変なことになると自分の頭で判断して、出勤したにすぎないのであります。


すなわち本当の実情から言えば、出勤し得る者がその重要性を自覚しないために怠けて出勤していなかったことが、これによってはっきりとわかるのであって、今度の戦争が国民の総力戦になっておらなかったということを、この出勤率の変化ぐらい具体的に表現している例は他にないと思うのです。


もちろん、日本の資材は非常に不足しておって、鉄のごときは敵の生産量の 5% にも足らない情けない数量ではありましたが、せめてこれだけの資材でも技術者や工員がこれを本当に日本のとっておきの資材だから大切に使わなければならいないというような心構えで使ってくれたら、もっと効率的な生産をすることができたはずです。ところが実際においては工員に対し、その重要性を納得せしめないで使っているから、大切な飛行機をつくるアルミニウムを盗み出して弁当箱をつくって闇で売るというようなことが起こってくるのです。


私は先年、朝のラジオ放送で、ある文学博士が歴史の話をされるのを聞いたことがありますが、その中で
「歴史というものは過去のことをただ空暗記する学問ではなく、過去のことを推して将来のことを判断する学問である」
といって、いろいろ実例を挙げられた際に
「軍人がやった戦争で勝った例はない。 必ず政治家の率いている軍隊に負けている。歴史がはっきりそれを示している」
と説明しておられましたが、私はこれを聴きながら東条首相がよくこんな放送を許したなあと思ったことを今でも覚えている。


結局、戦争に勝つためには、どうしても国民の総意を結集する以外にはない。その点において政治家のほうが軍人よりもはるかに優れているという教訓を示すものだと思うのです。ところが、日本の軍部の指導方針はこれらの歴史的教訓とは全く逆で、国民全部の目を閉ざし、耳を塞ぎ、口を閉じさせ、ただ鞭と剣の力で工場に国民を追いやったのですから、最後まで本当の戦力が出なかった。これが、第 3 の敗因であります。



永野護著敗戦真相記
―目 次―

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人物・用語解説


(62) 満鉄

「南満州鉄道株式会社」の略称。
日本の満州経営の中核となっていた半吏半民の国策会社。
日露戦争の勝利によって、ロシアから得た「東清鉄道」の一部(長春-旅順)や「炭鉱」などの利権を経営するため、1906年(明治 39年)に設立されたもので、初代総裁は後藤新平。
事業領域は鉄道、鉱工業、商業、拓殖、調査などの分野に広がり、活動地域も満州事変以降は全満州に拡大、一大コンツェルンとなった。
1945年(昭和 20年)、再選により、中国に全資産を接収された。


(63) 山下奉文 (1885―1946)

陸軍軍人。高知県生まれ、陸軍大学校を卒業。
軍事研究員としてスイス、ドイツに駐在。
オーストリア駐在武官、陸軍省軍務局軍治課長、北支方面軍参謀長、陸軍航空総監などを経て、1941年(昭和 16年)、第 25軍司令官として太平洋戦争(大東亜戦争)開戦とともにマレー半島上陸作戦を指揮、英軍の拠点となっていたシンガポールを一気に占領。
「マレーの虎」の異名をとる。
1944年(昭和 19年)、フィリピンを防衛する第 14方面軍司令官となり、1945年(昭和 20年)、敗戦とともに降伏。
1946年(昭和 21年)、マニラ軍事法廷で戦争犯罪で有罪判決、絞首刑となる。


(64) 「紀元は二千六百年」=奉祝国民歌紀元二千六百年

1940年(昭和 15年は神武天皇即位から 2,600年目にあたるということから、皇紀 2,600年を祝って作られた増田好生作詞、森義八郎作曲の歌。
この年の 11月 10日、東京・宮城前広場では、政府主催による紀元 2,600年の祝賀記念式典が開催された。
天皇、皇后、皇族、首相、軍人、官僚、外国大使、各地方の代表など約 5万人が参加した。


(65) エンリッヒ・ルーデンドルフ (1865―1935)

ドイツの軍人。
第一次世界大戦では、1914年に参謀将校としをて仏リエージュ要塞占領に貢献、東部戦線の第八軍参謀長としてヒンデンブルクを補佐、タンネンベルクの戦いで勝利を収める。
1916年には、ヒンデンブルクが参謀総長、ルーデンドルフが参謀次長となり、総力体制をつくる。
第一時代戦後は、国内の裏切りからドイツは敗北したと主張し、反共和国的色彩を強め、1923年にはヒトラーとともにミュンヘン一揆を起こす。
その後、ヒトラーとも離れ、政治活動家ら遠ざかった。
著書に『国家総力戦』。


(66) 大東亜共栄圏の四大原則

「大東亜共同宣言」で打ち出された原則。
正しくは「五大原則」。
1943年(昭和 18年)11月、東京で、日本占領下のアジア各国の代表が集まり、大東亜会議が開かれた。
出席者は、東条英機(日本)、張景恵(満州国)、汪兆銘(中国・南京政府)、ワンワイタヤコン(タイ)、ラウレル(フィリピン)、バモー(ビルマ)、チャンドラ・ボース(自由インド仮政府)で、会議後、「共存共栄」「自主独立尊重」「文化の高揚」「互恵提携による経済発展」「人種差別の撤廃」の五大原則をうたった共同宣言を発表した。


(67) 大西洋宣言

「大西洋憲章」のこと。
1941年(昭和 16年)8月 14日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相による共同宣言として発表された
第二次大戦後の世界秩序に関する基本原則。
「領土不拡大」「民族自決」「侵略された国家の主催・自治の回復」「戦勝国・敗戦国を問わない通称・資源の均等解放」などを掲げた。
1942年(昭和 17年)には連合国 26カ国が「連合国共同宣言」で、「大西洋憲章」の目的と原則に賛意を示し、『国連憲章』の基礎になった。


(68) バイカウント・ノースクリフ (1865―1922)

英国の新聞人。大衆紙の創始者。アイルランド生まれ。
1888年に、読者の投書に回答する新聞を創刊して成功、1894年に「ロンドン・イブニング・ニュース」を買収して再建。
1896年に大衆紙の先駆となる「デイリー・メール」を創刊して成功を収め、その後、「デイリー・ミラー」「オブザーバー」を相次いで買収するなど新聞帝国を築く。
1908年には当時、衰退していた、名門紙「タイムズ」の経営権を握り、復活させるが、紙面を私物化したとの批判もある。
第一次大戦では、軍需生産体制強化のために新聞紙上でキャンペーンを張り、軍需省の設立に貢献。
1917年に英国軍事使節団の団長として米国に渡り、1918年には対敵国宣伝部長となり、ドイツにおける反戦・反軍気分を高めるための情報戦を展開した。


(69) 中島飛行場

日本で初めての民間航空機製造会社。1917年(大正 6年)、中島知久平が設立。
軍の保護と三井物産、日本興業銀行の支援を得て拡大。
「97式艦上攻撃機」や陸軍戦闘機の「隼」「鍾馗」「疾風」などを製造。
零戦のエンジン「栄」も中島製。
1945年(昭和 20年)6月には日本初のジェット戦闘機「橘花」を完成、8月に初飛行に成功した。
同年、軍需工場として国有化され、敗戦後に返還されるが、財閥解体で分割。
その中の主要企業が合併し、1953年(昭和 28年)に富士重工業が設立された。


(70) 徴用

戦時体制に伴う労働力不足を補うため、国民を徴集し、政府が指定する業務や生産活動に強制的に従事させること。
日中戦争の拡大とともに総力戦の色彩が濃くなり、政府は 1938年(昭和 13年)に「国家総動員法」を制定、翌 1939年(昭和 14年)には「国民徴用令」が発布された。
1941年(昭和 16年)の対英米開戦以降は軍需工場への徴用が拡大した。
1945年(昭和 20年)に「国民徴用令」は「国民勤労動員令」に吸収統合された。
船員については 1940年(昭和 15年)に「船員徴用令」が発布されている。


(71) 学徒動員

「学徒勤労動員」。
戦時中、労働力の不足を補うために、学生・生徒を強制的に生産・建設活動に従事させた。
1938年(昭和 13年)から、学生・生徒は夏休みに 3-5日の勤労奉仕を義務づけられていたが、1943年(昭和 18年)、東条内閣は、中等学校 3年以上の男子については「戦技訓練」「特技訓練」「防空訓練」「特攻隊・特別警備隊としての訓練」、同女子は「戦時救護訓練」など、学校での軍事教練強化を打ち出した。
さらに、勤労動員も長期化、1944年(昭和 19年)4月以降は、中等学校 3年生以上は理科系学生など一部を除き、総動員され、学校教育はほとんど機能を停止した。



ちょっとおしゃべり

第 3 の敗因は、かなり笑えましたねえwww

まあ、今だから笑えるのであって、その時はみんな必死だったのでしょうけれど、歴史の教科書には載っていない一般大衆の歴史こそが、世界の歴史を脈々と形作って来ているような気がしますね。

戦争のための飛行機の材料であるアルミニウムをくすねて、弁当箱を作って金儲け!! \(^o^)/ その強かこそが生命力です(笑)

学徒動員。

これですね、民主党などが「教育改革国民会議」の勤労奉仕に難癖つけてるのは。あれらの団体に脈打ってる、時代錯誤も甚だしい亡霊が見えてきますね (笑)
いたんですよ、戦前からサヨクとかなんとかはwww




この記事は2009年12月5日保存の再投稿です。
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