◆ 敗戦真相記 ( 7) 科学無き者の最後 


ANTHEM
Onslaught (2004)
Black Empire (2008)
Walk Through The Night (2008)



永野護著敗戦真相記
2002年7月15日発刊


科学無き者の最後


以上のほか、国民の非能率だったこと、官僚の独善的だったことなど、いろいろな理由が綜合して戦争の敗因となったのですが、最も現実的に日本をギュッと参らせたのは、英米の科学の進歩ということであります。これは、さらに 2 つに分けて考えなければならないのであって、その 1 つは化学兵器の進歩があまりに違っておったことであり、他の 1 つはマネージメントの科学性の問題であります。科学兵器の差はあらゆる兵器について皆言い得るのであって、残念ながら何一つ日本の兵器が英米側より優れておるというものはないのですから、飛行機はもちろん、軍艦、大砲、火薬、いずれの例をとって説明してもよいのですが、その中で一番、日本に手痛い打撃を与えたのはラジオロケーターであります。


このラジオロケーターというのは英国の名前でありまして、アメリカではレーダーといっております。最近におけるラジオロケーターの機能というものは驚嘆に値するのですが、これは戦争が始まった後に急速に進歩したと言っていいのです。日本軍がシンガポールを占領したときに、イギリスのラジオロケーターを鹵閣(ろかく)して、それを調べたときには、その性能は当時日本で持っておったものに比べてみて、質的にあまり違わない、ただ、量的に大差あるものというわけで調査に行った日本の専門家もだいぶ楽観していたのですが、日本はその後、材料その他の関係でその質も低下したのに反し、英米側の進歩は実にめざましいもので、今日では比較するだに恥ずかしいほどの開きができた。


元来、(72) 原子爆弾ラジオロケーターというような新しい有力な兵器は、全部イギリスで発明され、アメリカはこれを工業化したにすぎません。そういう点でイギリス人というのはやはり偉い国民です。第 1 次世界大戦は、イギリス人がタンク(戦車)を発明したことによって勝負がついたと言われている。今度の戦争においてもまたラジオロケーターによって勝負がついたといって言い過ぎではないでしょう。


今度の戦争も最初のうちはドイツの潜水艦が花形武器であって、(第2次世界大戦)開戦 2年後の 1940年には毎月 100万トン以上、1 年には千数百トンの船舶を撃沈して明らかに英米両国の造船率を超過した撃沈率を示しておりましたから、敵と味方を通じて、イギリスは結局ドイツの潜水艦によって息の根を止められるであろうという見方をしていたのです。この危機一髪の際に、イギリスにラジオロケーターという救いの神が現われました。ラジオロケーターだと、暗夜の海上でも潜水艦の所在点が発見され、ちょっとでも潜望鏡を出すと飛行機から爆弾を投げられる。浮かび上がることも進むこともできない。今度は逆にドイツの潜水艦はイギリスの飛行機のために、えらい目に遭わされるようになり、爾来(じらい)1 年にして、ほとんど大西洋から姿を没した。これによって英米間の連絡が持続できて、戦争に一転機を画したのですから、イギリスのラジオロケーターが今度の戦争の最大の勝因であると言っても、あながち誇大な表現ではないと思うのであります。


このラジオロケーターはアメリカに渡って、さらに急激に進歩し、日本に爆撃に来た際、真っ暗な闇夜に来ても白昼と同じような正確な写真を撮っております。だから雨の降る日なんかも、下からは飛行機の姿すら見えないのに、敵のほうからは立派な照準をして正確な投弾をしている。また、日本の潜水艦があの広い太平洋のまん中にちょっとでも潜望鏡を出すと、すぐ米国のレーダーにつかまってしまい、即座に飛行機がやって来て、アメリカ自慢の照準機で投弾するから、ほとんど百発百中やられてしまうのです。これが日本の潜水艦および諸艦船がほとんど全滅的打撃を受けた大きな原因です。


また、このラジオロケーターのために、日本の (73) 特攻隊の勇士をどのくらい犬死させたか、わかりません。特攻隊が目的の軍艦の上に行かない前に、ほとんどみなラジオロケーターにつかまってしまい、大部分は中途で敵戦闘機の餌となっております。また、日本の運送船の所在もたちまち発見されてしまうので、向こうの目をくらまして南方各地と連絡することがほとんど不可能になった。すべてこれラジオロケーターの力といって差し支えないのです。




ラジオロケーターに次いでこの戦争に最後の止めを刺したのは、何と言っても原子爆弾であります。これも歴史的に言えば、1919年にロシアの学者がその原理を発見したという話ですが、完成したのはイギリスで、工業化したのはアメリカです。ドイツでもソ連でもイタリアでもフランスでも皆、相当の研究はされており、日本においても陸海軍や各大学で研究の結果、理論だけはわかっていたのですが、(74) ウラン 235 238 を分離することが実験できなかったのです。


そこで、広島が原子爆弾でやられたという報告を受け取っても、日本の技術者連は「技術的にできるはずがない」と軽々には承知しなかったのですが、実情調査のため飛行機で広島に飛び、その惨状を上空から見たとき、機上にあった連中は期せずして「なるほど、これはひどい。原子爆弾に違いない」と顔を見合わせたとのことであります。


広島における惨害の程度は調べれば調べるほど甚だしく、一言にしていえば広島全市が、一発の爆弾で消失したといい得ると思いますが、その爆弾の中に使用したウラン 235 はわずか 1 g にすぎなかったそうです。しかし、これを火薬に換算すると 80万トンという想像もできない大量の火薬の爆発力に相当します。


当日、広島の上空に落下傘が 3つ降りてきましたので、最初はそれを爆弾だと思ったが、実際はこれは圧力の差や爆発力などを無電で沖縄にあるアメリカ軍の本部に自動的に知らせる観測器でありまして、これによってみると、広島における爆発力は、アメリカの内地で実験したときに比べると半分ぐらいの力しか出ておらず、アメリカとしては満足すべき爆発力ではなかったとのことですが、何にしてもわずか 1 g でもって、あれだけ大きな爆発力を持っておるのだから、あれだけでもう満足してもらってたくさんなわけでしょう。


ことにこの爆弾の性能は、物理的な破壊力の素晴らしさよりも、人間に与える生理的な影響の深刻さのほうが聞けば聞くだけひどいのであって、被害を受けた当日は外部的に少しの負傷もなく、身体に何の異変も感じなかった者が、ずっと後になって次第に食欲がなくなり、頭髪が抜けて死んでしまう者がたくさんある。広島では当日、ガスを吸った者が激しく労働するといけなくなるといっている。いくらか怪我をして、すぐ広島を離れて静養した者はかえって工合いがよく、何も故障がないために広島に残って働いた者があとになってひどい目に遭った。その症状に至っても各人各様で、あるいは骨が腐って死ぬ人もあれば、胃の中がまるでザクロのように爛(ただ)れて死ぬる人もあり、特に(8月)6日の現場の話を聞くと、そのむごたらしさは到底聞くに堪えぬほどでありまして、中には近所の川にピクニックに行っていた何百人の女学生の皮膚がまるで蛇の皮が抜けるようにツルリと剥(は)げて肉がまる出しになったような生き地獄を現出したのです。




この他、科学兵器については、日本人として目を見張るような実例がたくさんあるが、素人にも最もわかりやすいのは、土木機械の一例で、戦力の差をこれぐらいハッキリ納得さすものはありません。例えば、厚木と横浜の間、40 km の間に27時間で 5インチのガソリンパイプの敷設を完成したということなども、その一例でしょう。


8月 29日に初めてアメリカの飛行機が厚木に着いたのですが、到着するとすぐその飛行機に給油をしなければならない。アメリカのタンカーは横浜に着いているので、これを厚木まで送油しなければならない。ところが日本の輸送能力ではなかなか手間がかかって、とてもアメリカの考えているように手早く仕事にはならないと気がつくと、アメリカではすぐこの間にパイプを敷くと言い出した。これを聞いた日本の軍人は、横浜から厚木まで 40 km、その間には山あり谷あり、測量するだけでも 3日や 4日ではできないから、すっかりできあがるまでには少なくとも 3年はかかる。そうするとその間、タンカーは横浜に釘付けにしなければならない。給油すべき飛行機も 3年間厚木に釘付けにされなければならない。そこで大いにびっくりして
「いったい何日でやるつもりだ?」とアメリカの兵隊にきいたところ、「four」と答えた。これを聞いた日本人の頭ではどう考えても 4日ではあり得ない、4月(よつき)でも早いと思ったが、「only four month - 4月(よつき)とは早いですなあ」と感心したら、「no, four days
と言い直した。


日本人なら、誰にやらせようかと決めるだけでも 4日はかかる。それから測量機械を担いで厚木と横浜の間を歩くとなると、40km あるから、調査するだけで4カ月で完成すれば、よほど早いほうで、それから設計する、入札する、あれが良い、これが悪いと選んで工事にかかって、まあ 3年でできれば好成績でしょう。だからその頭で見ると、4日間でやるということがどうしても想像がつかない。けれども、やるというのだから、勝手にしやがれというので肚の中で笑っていた。ところがアメリカ兵はすぐ工事にかかって、たった 27時間で仕上げてしまった。


4日間なんてかかりはしない、たった 1 日半で 40km の給油管を敷設して、現に厚木の飛行場にはちゃんと毎日、横浜のタンカーから給油しております。


ところで、この事実が特に我々に感動を与えるのは、同じような工事をいま、日本が他の地方でやっているからです。
千葉県の大多喜というところに天然ガスが出る。大多喜では需要が少ないから、千葉市に持っていこう、千葉市なら人口も多いし、工業燃料としても使えるからというので、3 年前に大多喜から千葉市へガス管を敷設することに決定したのです。


この計画に対しては、軍需省も燃料国策として非常に結構というので乗り気になり、その方面の国策会社である帝国工業開発の直系会社である昭和鉱業が全力を尽くして工事に取りかかっている。これはやはり距離が厚木-横浜間と同様、40km で、やはり 5インチのパイプを使って 3年間やっているのだが、未だに完成はしていない。ガスとガソリンと運ぶものは違っていて、工事の分量は同じなのですが、それを片っ方は 27時間、もう片っ方は 3年かかってもまだ完成しない。


それからもう一つ、進駐軍が横浜の(ホテル)ニューグランドから東京帝国ホテルに来た。そして本部のニューグランドに至急電話をかけてくれというと、電話局で 3 時間かかると答えたので、ひどく驚いた。それもそのはずです。アメリカ進駐軍は毎日、東京からワシントンまでわずか 3分間の呼び出しで通話しているそうです。この数千マイルの太平洋を越えて、それからアメリカ大陸を横断したニューヨークやワシントンの連絡が 3分以内でかかるのに、目と鼻の先の東京-横浜間の呼び出しが 3時間かかると言われたので、アメリカの兵隊は呆れた。我々の体験では、横浜が 3時間で呼び出せれば、むしろ早いと思うぐらいですが、アメリカの兵隊の常識では、電話交換手が通話申し込みを受理してから、一度家に帰って昼寝して、それから交換台にかかる以外には 3時間という時間のかけようがないと思うらしい。


それでは、よし俺のほうで何とかするからというので、早速電話線の架設にかかって、わずか 1 時間半後には自分の専用線で「Hello, hello」をやり出したのです。専用自動車に架設線の捲いたのを積んでいって、走りながらどんどんワイヤーを落としていく。それを後の自動車が受けて、とっとっと樹か何かに引っかけていくだけらしい。だから、東京-横浜間を自動車で走る時間だけあれば、電話線が架かってしまうのですが、ともかく日本のほうは既設の電話線があって、それを利用するだけに 3時間かかる。一方、何もないところを 1 時間半で電話線を敷設するのだから、だいぶ話が違います。


それからこれは私の体験ですが、先日の風水害のときに、姫路のちょっと手前で汽車が不通になり、自動車もこの先の川のところから通れないと聞かされた。ともかく行けるだけ行こうと思い、その川のところまで行ってみると、なるほど、日本の内務省の所管しているほうはやっと人間の通れるような小さな仮橋が架けてあるきりだから自動車は通れないが、すぐ、かたわらを見ると立派な鉄橋が架けてあるじゃないですか。どうしたのかときいてみると、アメリカの兵隊が架けたというのだが、これは自動車オンリーで徒歩の人は通さない、何となればアメリカ人では歩いている人はいないからで、日本人でも自動車は通らせる。それで自分もそこを渡させてもらって汽車の連絡がつきましたが、日本人のこしらえた木の仮橋と、アメリカ人のこしらえた立派な鉄橋、それはアメリカと日本の科学的な能力を見てくれとばかりに並んでいたので、非常に強い感銘を受けた。このような土木建築の能力の差というものは、ラジオロケーターや原子爆弾に比べると、むしろ第二義的なものですが、何にしても科学兵器の差というものが決定的な敗因になっております。




ところで、このような科学兵器の差というものは目に見えるから皆納得するが、目に見えないで、もっと戦局に影響を及ぼしたものはマネージメントの差です。
残念ながら我が方は、いわゆるサイエンティフィック(科学的)マネージメントというものが、ほとんどゼロに等しかった。例えば日本の鉄の生産量というものは、全部有効に使っても、アメリカの 5% しかないのに、この 5% の鉄量すら有効に使えなかったので、実際は、2% の生産量ぐらいにしか当たらない。


ちょうど、隅田川に橋を架けるのに 10本架けなければ交通量がさばけないという場合、日本のやり方は、漫然と 10本の橋を架けるが、みな資材が足りなくて途中で切れていて、結局、向こうに渡れる橋は 1 本もできなかったという状態です。マネージメントがうまくいけば、10本架ける量がないとなれば、では、5本だけ架けよう。あるいは1 本だけでもいい、早く架ければ人が通れて、大変重宝する。これはマネージメントの差で、科学力や生産量の差ではありません。


ところが、この経営能力が、また科学兵器の差よりもひどい立ち遅れであって、この代表的なものが日本の官僚のやり方でしょう。
日本の官僚の著しい特性は、一見非常に忙しく働いているように見えて、実は何一つもしていないことで、チューインガムをかんだり、ポケットに手を入れたりして、いかにも遊んでいるように見えて、実際は非常に仕事の速いアメリカ式と好対照を見せています。


今度、進駐軍が来ていろいろなものの引き渡しをやるのを見ると、日本のほうは引き継ぎ式をやろうというので、証書に目録を付けて、当日はフロックに身を正して、テーブルにはちゃんと白い布を張って、花ぐらい生けて待っている。そうすると何時間待っても進駐軍は来やしない。一同、待ちくたびれた頃に、倉庫からアメリカの兵隊が出てきて、もう調べたから日本人は出ていってくれという。打ち合わせて物品を受け取るというような形式的なことはない。挨拶の英語を暗記してきたフロックコートの先生は大いに面食らってしまったという実例を聞いたけれども、このマネージメントの差が、この戦争の遂行上実に大きな影響を与えたことは、むしろ目に見えるサイエンスの差よりも大きい。


例えば軍の動員計画なんかも実に非科学的なもので、その技術者がいなければ工場が一遍に止まるというような重要な者を引っ張っていって、馬を洗わせたり、壕を掘らせたりする。もっとひどいのは、工場から熟練工を招集したために、その工場の能力が落ちると、応援の兵隊さんを今度は軍から寄越してくることです。工場から応召した熟練工は新兵になって壕掘りをしているのに、壕掘りの上手い古参兵が、ズブノ素人になって工場に応援に来る。そうして、最近どうも工場の能率が落ちたと騒いでいる。こういう例を挙げれば、数限りありません。これが日本が負けた見えざる大きな原因です




聞くところによると、アメリカのニュース劇場で (75) 東京空襲の映画を上映するとき、日本なら「日本
空襲何々隊」 とつけるべきところを、そんな題はつけないで、「科学無き者の最後」という標題を付しているということです。ああ科学無き者の最後!! アメリカは最初から日本のことをそう見ており、まさにその通りの結果になったと言い得ましょう。


かつて (76) アッツ島の山崎大佐の玉砕の時も、アメリカの新聞は、アッツの戦いは野蛮に対する文明の戦争の一つの好例であると書いていた。その意味は、「アッツを日本軍は何か月間も占領していたが、その間、ウサギの通うような小道しか造らず、電灯線も引かずにローソクで岩窟の生活をしていた。ところが米軍が上陸すると 3日ならずして、羊腸たるウサギの小路はトラックの通るアスファルトの道路に変わった」というのです。これを当時の日本の軍部が、糧食、兵器の後援の続かなかった自分の責任を一向に反省せず、ただ「アッツの玉砕に続け」と叫び、続けば必ずワシントン (77) 「城下の盟ちかを実現し得るがごとく放送したことに比べると、「科学無き者の最後」と笑われても一言もない次第です。


しかも我々の反省すべきことは、「この科学無き者」の痛罵が、単に科学兵器や経営能力に対して言われるばかりでなく、実に軍をあれほどまで横暴にさした日本の政治の根本的な仕組みにあてはまることで、せめて軍内部だけでも、すなわち陸軍と海軍の間だけでも協力一致して、全兵力を科学的に総合的に運営すれば、まだこれほどの事態にならなかったと思われるのですが、10本の橋を 10本とも河に架け切らなかった非科学性が、特に陸海軍の不一致という形で最も露骨に、最も顕著に現われたのは痛嘆の至りというほかはありません。



永野護著敗戦真相記
―目 次―

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人物・用語解説


(72) 原子爆弾

ウラン 235 、プルトニウム 239 などの原子核分裂を利用した大量破壊兵器。
第 2 次世界大戦中、ドイツでは、核分裂発見の翌 1939年から、英国では 1940年から原子爆弾の開発が始まった。
米国でも 1939年に、アインシュタインが大統領のルーズベルトにドイツの原爆開発を警告、核分裂の研究を始めるが、「マンハッタン計画」と命名された原爆開発計画がスタートしたのは 1942年夏と遅れた。
1943年にルーズベルトとチャーチルの米英首脳会談によって原爆開発を米国に一本化、ニューメキシコ州ロス・アラモスに研究所を設立、ドイツからの亡命科学者をはじめ、英米の英知を集め、研究を推進。
ドイツ敗戦後の 1945年 7月 16日に、ニューメキシコ州アラモゴードの荒野で、人類史上初の原子爆弾による実験が成功。
同年 8月 6日に広島市にウラン 235型、同年 8月 9日に長崎にプルトニウム 239型の原子爆弾が投下された。


(73) 特攻隊

「特別攻撃隊」の略称で、戦闘機による体当たり自爆攻撃のために特別編成された部隊。
その攻撃を「特攻」という。
1944年(昭和 19年)のレイテ沖海戦で、第一航空艦隊司令長官の大西滝治郎が発案、「神風特別攻撃隊」と命名して編成、米軍艦艇に突入した。
その後、戦況が悪化し、通常の方法では米軍に対抗できなくなると、恒常的な戦法となり、米軍から「カミカゼ」と恐れられた。
1945年(昭和 20年)4月-5月の沖縄戦では陸海軍による大規模な航空機による特攻が行われたが、米軍の対応策も進歩し、しだいに戦果は低下していった。
なお、特攻は、戦闘機によるものばかりでなく、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」、ロケット「桜花」などもあった。


(74) ウラン 235 と 238

ウランは放射性元素の一つで、ウラニウムともいう。
天然ウランの中には、ウラン 234、235、238 の 3 種類が含まれる。
このうち、ウラン 235 は、遅い中性子を衝突させると核分裂を起こし、膨大なエネルギーを放出する。
一方、ウラン 238 は核分裂性物質ではないが、原子炉で核分裂の連鎖反応が起こっている中に置かれると、中性子を獲得し、核分裂性のプルトニウム 239 に変化する。
ウラン 235 とプルトニウムが原爆の原料となったが、ウラン 235 は、天然ウランの中には約 0.7% しか含まれないため、原爆製造には分離・濃縮が必要となり、ウラン 238 からプルトニウムを得るには原子炉で生成しなければならず、これが原爆開発にあたっての技術的な課題となっていた。


(75) 東京大空襲


東京の初空襲は、1942年(昭和 17年)4月 18日、米軍空母から発進したドゥリトル爆撃隊による奇襲攻撃。
サイパンなどが陥落して米軍による長距離爆撃体制が整うと、1944年(昭和 19年)11月 24日からは連日のように爆撃が続いた。
当初は軍需工場を目標としていたが、1945年(昭和 20年)からは都市を焼き払う無差別爆撃となり、3月 10日未明の東京大空襲では、B 29 による夜間焼夷弾無差別爆撃の結果、1 日だけで 10万人近い死者を出した。


(76) アッツ島の山崎大佐の玉砕

アリューシャン列島の最西端アッツ島は 1942年(昭和 17年)に日本軍が占領したが、1943(昭和 18年)5月 12日に米軍 1 万 5千人が上陸。
山崎保代・陸軍大佐が率いる日本軍守備隊 2,500人は支援もないまま、29日に全滅した。
大本営が「玉砕」という言葉を使った初めての戦い。


(77) 城下の盟ちか

敵の首都まで攻め込んで結ぶ講和の約束。


[ー(長音記号1)][ー(長音記号1)][ー(長音記号1)] [喫茶店]
ちょっとおしゃべり

これも落語の、はっつあん、くまさん状態でしたね。爆笑の連続です。

でも、笑ってる場合ではなく、日本民族の特性というものは今でも全く変わっていませんね。
「マネジメント」というものも、日本人は克服できていない気がします。
官僚もそのままみたいな気がしますし・・・(苦笑)

せめて科学力だけはトップに立ちたいですけど、どうやら現政権の価値観は、そんなところに置いてないみたいだし。
というか現政権そのものが、ここに書かれてある日本民族の特性の、極上のサンプルです



ANTHEM
Onslaught (2004)
Black Empire (2008)
Walk Through The Night (2008)

日本のバンドの中では私のイチオシの「アンセム」です !(^^)! 

演奏技術としては、日本にも世界で指折りのアーティストが沢山いますが、イマイチ、世界進出が弱い。

VOW WOW、OUTRAGE、LOUDNESS、そしてこのANTHEM・・・いずれも世界的なアーティスト達に認められているにも関わらず、どうして、世界のシーンでは、いまひとつ、パッとしないのでしょう。

それをヴォーカルの英語力とする人もいます。
プッシュが弱いプロモーターなどの業界の責任にする人もいます。

音楽に言葉はいるのか? とホザく私(笑)に言わせれば、英語力は関係がないと思います。
もしそうならば、英語が母国語ではない国では、英語で歌われる音楽が流れないでしょう。

そしてプロモーターなんて、インディーズのヒットの前では形無しです(笑)

思うに、音楽というものは一種のトランスともいえるものではないでしょうか。
言葉とか演奏技術とか、そういった形のものではなく、もっと五感や六感的なもの。
心地いいとか、心地悪いとかといった、気分の問題。

それにはやはり「リズム」というものが最重要になると思うのです。
日本民族独特の穴掘りに近いメチャクチャ・リズムでは、心地よく酔えないのです。
悪酔いしかねないのです (笑)

それを見事に克服したのが 2000年あたりからの ANTHEM です。
柴田さんがベースということもあって、ビートの位置に気配りが出来たのかどうなのか。
残念ながら HM/HR がロック・クラシック的な存在になってしまって、あの黄金期のような熱狂に巻き込まれることはないですが、世界で充分に通用する「ROLLINGのリズム」の演奏は、改めて ANTHEM の名前を世界で位置づけました。

ところが肝心の日本で、曲のカヴァー映像とかは沢山あるのに、ANTHEM そのものの映像が極端に少ないことに驚かされました。




この記事は2009年12月6日保存の再投稿です。
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