◆ 敗戦真相記 ( 8) 日本における陸軍国と海軍国 


BLUE MURDER ~ Valley Of The Kings (1987)


永野護著敗戦真相記
2002年7月15日発刊


日本における陸軍国と海軍国


この陸海軍の不一致ということは、科学能力の劣弱性に匹敵すべき戦争の致命的敗因です。部門のことは、実は今まで全く帷幄(いあく)のかげに閉ざされて皆目わからなかったが、最近になって、だんだん敗戦の経過なんかを新聞などで発表するようになってきて、国民はいまさらに、そうまで陸海軍の間に相剋があったかということを教えられているようなわけです。


例えば (78) サイパンの戦闘ですが、太平洋戦争におけるサイパンの戦略的価値というものは非常に大きくて、日本の海軍大学で日米戦争の想定をするときに、サイパンを奪(と)られた以後の日米戦争というものは、考えた者はなかったというぐらいです。すなわち、如何なる想定をしても、サイパンというものが日本の手中にあって、その後に日米いかに戦うべきや、と考えるのが常則で、サイパンを奪られて後、如何に日米戦争をするかということは到底考えられないほど、サイパンの価値は大きい。それを、ああ容易に奪られた裏面には、陸海軍の作戦の不一致があった。


さらに沖縄の戦闘にいたっては、我々素人としても心外に堪えないのは、海軍がもう沖縄が本当に最後の防衛線である、沖縄決戦のためには根こそぎの兵力を出すというのに、陸軍がそれに相当する力を沖縄に注いだかということはすこぶる疑問で、沖縄決戦の直前に精鋭の金沢師団を台湾に移したという事実すらある。恐らく陸軍は、陸軍の立場から最後まで本土決戦ということを考えておったというのが事実でしょう。


ところが、我々素人考えから言うと、海軍がいわゆる世界戦史にもない悲壮な (79) 戦艦の殴り込みというようなことをして、沖縄防衛に最後の一艦まで投じてしまった後で、陸軍だけで決戦ができるということは考えられない。決戦ということは、その言葉の中に、これから戦争を決するという意味があるので、単に戦争が続くことは決戦とはいえない。例えば、日清戦争で台湾を取っても、(80) 生蕃せいばんは山の中で 30年近く蠢動(しゅんどう)しておったのだが、あれが日清戦争の続きとは言えない。いわゆる、残敵掃討の範囲を出ない。決戦は沖縄がまさに最後であったのですが、それを「本土決戦」というような言葉を使って、まだアメリカが勝つか、日本が勝つか、わからないというような報道の取り扱いをしたことは、如何に日本の軍部に深遠の計画があったのか、我々素人にはさっぱり解せない。むしろ我々素人が考えることは、もっと沖縄に陸軍の精鋭を置いて陸海協力一致して、ただの一度でもいいからアメリカを水際に叩き込むという大戦果を挙げたならば、今度の戦争の顛末(てんまつ)に、あるいは多少の変化が起きておったのではないかということです。


ソ連は強ければ親友、弱ければ仇敵(きゅうてき)となる現実主義の国ですから、沖縄を頑として守り抜けば、それは単にアメリカの局部的な一兵力を破ったということでなくて、外交的にも大きな転換が来たのではないかとも考えられる。これなどは陸海軍の不一致が生んだ最も不幸な実例であって、台湾に移った金沢師団の精鋭は、一発の弾も撃たないで終戦となってしまったのです。


また、支那その他の占領地区の防備にしましても、ここは陸軍地区、あそこは海軍地区というような、まるで各国の連合軍が領土を取ったような観念です。ちょうど、アメリカとソ連が朝鮮を北緯 38度で分けて、京城(ソウル)はアメリカで、平壌(ピョンヤン)はソ連で統治するというようなやり方をしている。どう見たって、一国の陸海軍の一致した兵力運用の仕方ではない。これは元々、日本の中に陸軍という国、海軍という国があったと、言い得るでしょう。


戦争が進むに従って、この陸海軍の対立がひどくなり、整備の点から言っても、陸軍が次第次第に海軍の領域に侵入してきて、陸軍は自分だけで船舶兵というような水平をつくり、駆逐艦もつくり、潜航艇もつくった。進んで航空母艦も戦闘艦もつくらなければならないと言い出した。これでは何のために一国のうちに、海軍というものがあるのか、わからなくなる。もちろん陸軍専用の造船所もつくる。例えば、函館船渠(現=函館どっく)という会社だけでも陸軍専属の造船所にしようとしたので、海軍は驚いて抗議を持ち出して、結局、函館船渠は陸海軍共管ということに納まったけれども、海軍がこれに対抗して同じ陸戦隊の名の下に大砲や戦車を持つようになったならば、全く一つの国のことではなくなります。つまり日本の軍部というものは、陸軍国、海軍国という連合国以上の何物でもなかったというのが実情でしょう。




以上の作戦方面における陸海の相剋は、戦争の最中はいわゆる、厳秘に付せられて、国民にあまりよくわからないけれども、軍需資材の方面になってくると、これは非常にはっきりしたもので、工場関係の者は誰でも一つや二つの材料は持っていないものはないというぐらいです。例えば大日本兵器という会社の青砥の工場に行ってみると、同じ工場に門が 2つ並んでいる。工場の当局者に聞いてみると、1つは陸軍の軍人さんのお通りになる門、1つは海軍の軍人さんがお通りになる門だということです。「ひどい肺病患者や伝染病患者が通るのでも門は 1 つでいいのに」と言うと、「どうしても軍人さんたちがそういう御注文をなさるから、2 つ門をつくった」と答えた。


門を別にするぐらいですから工場は無論、別にする。別にするばかりでなく、その間に高い塀をつくって、陸軍の工場から海軍の工場のほうには一人の行員も融通しない。同じ会社の中で互いに往復はできないし、たとえ片っ方の工場が非常な手空きになって工員が仮に遊んでおっても、片っ方の忙しいほうの工場に援助に行くなんていうことはもってのほかのことである。仮にちっとでも手伝いをすると、あたかもスパイ行為、利敵行為、敵国の工場の手助けでもしたというようなことに見られて、憲兵にひどい目に会う。これは本当のことです。陸海軍の仕事を一緒にやっている、どの工場にも見受けられた風景です。


それから資材でも、一方の陸軍の工場のいま急に要らない資材を海軍の工場のほうに廻してやれば、直ぐその日飛び立つ飛行機ができるというような事情があっても、陸軍は断じてこれを割愛しない。反対に、海軍で全く要らない資材で、陸軍では咽喉(のど)から手の出るような物でも決して渡さない。そうして、お互いに資材難に悩んでいる。ちょうど一足の靴を取りっこして、一人は右だけ、一人は左だけ取って、しまい込んでいたため、両方とも裸足で歩いて怪我をしたというような馬鹿気たことが随時随所に起こっています。


これは、ある近畿地方に起こった例ですが、今年度(昭和 20年)になってから、松根油(しょうこんゆ)の採取ということが非常にやかましく言われ、国民はこれさえあれば飛行機が飛べるというので、寝食を忘れて一生懸命になって松の根を掘ったが、これにもやはり陸軍地区と海軍地区があって、陸軍地区で掘った所は陸軍だけが使う、海軍地区になっている所の松の根は、挙げて海軍が使うという協定になっておったのに、近畿地方の海軍地区のある村が非常に勉強をして、相当にまとまった材料を溜めているところへ例の陸軍の船舶兵の暁(あかつき)部隊がやってきて、その松根をトラックで持ち去ってしまった。海軍はこれを見て、非常に怒って、今度来たらうんと取っちめてやろうと待ちかまえていると、また、暁部隊が略奪に現われたものだから、「それっ」というので、衆人環視の中で陸軍と海軍が上を下への大乱闘をやった。村民は全くあきれて涙を流して悲しんだ。そこの知事もこれを聞いて、「陸軍海軍が帷幄(いあく)の後で噛み合うのは仕方がないが、どうか白昼国民の前で噛み合うことは止めてくれ」と、陸海軍両方に申し込んだという事実があります。


また、瀬戸内海のある地区では、敵の爆撃が激しくなったので、岬の海岸を掘りぬいてそこの舟艇を隠すことにしたのです。ある岬を陸軍と海軍が互いに気がつかなくて、各反対側から掘り始めて、途中でそのことがわかり、そうして、こともあろうに役場に両方から出向いて、町長にその境界争いの仲裁をしてくれということを持ち込んだ。役場の者は驚いて、陸海軍の争いを役場で調停することはできないから、相談づくでやったら、よろしかろうと言ったが、いや俺たちではできないというので、町長さんは困ってしまった。結局、陸海軍各々反対の側から掘り進んでいるのだから、そのままずんずんと掘っていって、ぶつかったときに改めて相談したら、よろしいじゃありませんか、というので、切りがついたという醜態もあった。


戦争資材に関する最も目立った縄張り争いは、鉄の争いだったが、結局、(81) 日鉄は海軍が古くからの関係で押さえた形になっているから、陸軍は日本鋼管に主力を注いで、いつの間にか鋼管は陸軍の製鉄工場、日鉄は海軍の製鉄工場というような形になっていた。こういう暗闘が、そうでなくても少ない日本の鉄資材を如何に非能率的にしたか、わからない。単に鉄材に限らず、どんな材料でも陸海先陣争いで押さえてしまう。自分が要るから押さえるのではない。黙っていると相手が使うであろうと、要っても要らなくても押さえてしまう。だから、本当に要るところでは間に合わない。錫 (すず)、銅、アルミ、ニッケル、その他薬品であろうが、食糧であろうが、葉っぱであろうが、皆そうです。


笑い話みたいな話は、空襲のときに爆弾で牛や馬が死ぬ。普通の市民はこれを食おうと思っても、何とか取締り規則というのがあって、自由にすることはできないが、陸軍と海軍の兵隊はちょうど花火が落ちたときに、そのからを子どもが取りに行くような格好で、あそこで牛が 1 頭焼死しているというと、「それっ」と言って、陸軍と海軍とが駆けっこで取りに行く。トラックが間に合わないときには、実際に駆け足で行きます。そうして、片っ方は牛を 5頭も 6頭も押さえて、食い切れないで牛肉の臭いをぷんぷんさせているのに、片っ方はたまたま駆けつけるのが遅かったために、鼻をぴくつかせながら、うらやましそうに、これを眺めておる。これは、ごく卑近な例ですが、一斑(いっぱん)をもって全豹を察するに足り、陸海軍全体としての運営なんていうことは夢想だにできなかった。これが今度の戦争の敗因のうちで、科学兵器の立ち遅れと相並んで致命的なものでしょう。


また、小さい例は同じ用途のネジをつくるにしても、陸軍が右ネジにすれば、海軍は左ネジにするというようなことをする。すなわち、どんな部分品でも、陸軍の物は海軍では使えない。海軍の物は陸軍では使えないようになっていた。軍需省はこれら陸海軍の生産競争を調停するためにできたもので、せめて資材の方面だけでも統一されるという希望がかけられていたが、この最小限度の希望すら戦争の最後まで達成されなかった。だから、わずかに残っている民需の方面にのみ口をきいたので、名前は軍需省だけれども、やっていることは民需省であった。肝腎の陸海軍は軍需省をさし置いて相変わらず別々に発注し、軍需省は単にこの陸海軍の発注の後始末をつけていたに過ぎない。総合立案計画というものは何一つとしてできなかった。およそ軍需省ぐらい設立の理想と実際の運営とが違った役所はないでしょう。


しからば、陸海軍当局者はこの競争相剋の弊害を知らなかったかというと、もちろん大知りです。第三者よりも身にこたえて知っている。それは、そうでしょう。お互いに陸軍御用、海軍御用の写真屋を抱えていながら、一方は、印画紙は豊富だが、現像薬がなくて困っている。一方は、現像薬はありあまるが、印画紙が足りなくて写真が撮せないという現象が毎日起こっているのですから、これは何とかしなければならないと、陸軍、海軍の個人個人は大知りなのですが、知っていて直せなかったのが、亡国の兆しだった。あれよ、あれよという間に激流に押し流され、お互いにわかっていながら滝壺に落ちこんだというのが今日の実情であります。




こんな風にして、日本は負けたのです。この全体を覆う色彩は、自国中心の思い上がりと、生産と組織に対する非科学性です。満州事変直後に、(82) トロッキーが「噴火山上の日本」という一文を草して、「日清戦争は日本が支那に勝ったのではない。腐敗せる清朝に勝ったに過ぎない。日露戦争は日本がロシアに勝ったのではない。腐敗せる (83) ロマノフ朝に勝ったに過ぎない。要するに、これは一つの後進国が、さらに一層遅れたる後進国に対する勝利に過ぎない」という意味のことを主張していますが、トロッキーを今日あらしめたならば、「今度の戦争に負けたのは腐敗せる日本軍部に過ぎない」と主張してくれるかどうかであります。トロッキーは、この論文に続けて、「日本は日清日露の成功に思い上がり、東洋制覇の事業に手を出し始めたが、これは早晩、アメリカかソビエトロシアに対する衝突を招くだろう。日本の生産と科学は果たしてこの大戦争に用意ができているかどうか。日本国民の神秘主義と精神論は、この大戦争によって冷酷にテストされるに違いない」と予断を下していますが、10年後の今日になってみると、全く彼の先見の明に一言もない次第です。


ところで、何故、こうまで軍部の独裁を許したかということになると、一面は、明治維新以来の日本の政治性格の半封建性によるのでありますが、他面、たしかに、前述したように重臣、議会、財界、文化各方面の人たちの無気力によるところが多いことを認めざるを得ません。しかし、私は議会人の一員として弁護するわけではないのですが、「過ちを見てその仁を知る」という意味で、この無気力はこれらの人たちの、あるいは日本国民の善良なる一面を現わしているとも見られるのです。すなわち、日本人はたとえ一部の意図に引きずられたにせよ、日本という国家の動きとして内からも外からも見なければならないような動向をとるに至った暁には、たとえその動向が己の信念と相反するような場合でも、国家への奉仕のために大なり小なり、おのれ自身を奉げなければならないという三千年来の伝統を持っているので、この民族的な統一心理が今度は不幸にして、軍閥官僚によって脱線せしめられた「歴史」の後押しをするに至り、かえって有史以来の大失敗を招くに至ったとみられる部分があると思います。


すなわち、満州事変、支那事変、これに続く大東亜戦争に対しては、内心反対であった分子も決して少なくない。しかし、もう戦争となってしまった以上は、いまさら自分の力ではどうともならない、せめて国策の命ずる通り動くのが御奉公だという考え方で、働いていた部分も少なくないと見られるのです。


不幸にして、今度の戦争では、この民族的な統一心理のために、かえって失敗を致命的ならしめた。しかし、私は、日本再建のエネルギーを、やはり、この民族的な統一心理に見出そうとするものです。その代わり、今度の国家の進路というものは、あくまで合理的に計画的に道徳的に設計され、全国民の意志で決定されるような仕組みにしなければならない。もしも、そういう風に国家の動向がプラスの方向に定められれば、東条軍閥の独裁下にあっても、あの程度まで発揮した民族的な統一心理が今度は 100% に働いて、その国家目的が貫かれることは、ほぼ確実といえると思います。


その意味で、政治の仕組みということが、今後の日本の運命を決するので、帝国主義的な古い夢を追って、ドイツの二の舞を演ずるような独裁的権力を二度と再びこの日本に君臨せしむるようなことがあってはならない。しからば、日本の現状はどうなっているか、これから先の日本の政治経済は、具体的にどう新生していかねばならないのか、という問題に移っていこうと思います。



永野護著敗戦真相記
―目 次―

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人物・用語解説


(78) サイパン

西太平洋マリアナ諸島にあり、グアム島の北に位置する。
現在は米国の自治領。
1565年にスペイン人レガスピが上陸し、スペイン領に。
その後、1899年にスペインが売却、ドイツ領となるが、第 1 次世界大戦で日本の南洋委託統治領になり、日本人の移住が進んだ。
太平洋戦争の戦略的要衝で、1944年 (昭和 19年) 6月、米国が上陸。
日本軍は補給も得られぬまま島の北部に追いつめられて 7月に玉砕。
日本人移住者の自決など、民間にも多くの犠牲者が出た。
サイパンの占領により、米軍は日本本土空襲の基地を確保。
これ以降、日本では大都市の空襲が本格化する。


(79) 戦艦の殴り込み

世界最大の戦艦 「大和」 を中心とした、連合艦隊の残存海上部隊による沖縄への海上特攻。
1945年 (昭和 20年) 4月、沖縄に上陸した米軍を撃退するため、戦艦を海岸に乗り上げさせ、その主砲を砲台としようという特攻作戦。
大和は片道の燃料だけを積んで沖縄へ向けて出撃したが、米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け、九州南方で沈没した。


(80) 生蕃せいばん

台湾の原住民諸民族。
清朝以降、台湾の原住民のうち、漢族に同化したものを「熟蕃」、同化しなかったものを「生蕃」と呼んだ。
日本の統治時代は、「生蕃」を「高砂族」と改称し、国民党は「高山族」と呼んだ。


(81) 日鉄

半官半民の巨大鉄鋼会社。日本製鉄株式会社の略称。
戦時体制が強まる中で、鉄鋼業の大合同が打ち出され、1934年(昭和 9年)、官営八幡製鉄所を中心に、三菱・三井財閥系の銑鉄会社 3 社と、九州製鋼、富士製鋼が合同して設立された(後に、東洋製鉄が参加)。
日本鋼管などの優良製鋼会社は参加しなかったが、それでも粗鋼生産能力は日本の 6 割近くを占めた。
戦後、財閥解体で、八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨耐火煉瓦に分割されたが、八幡、富士は 1970年(昭和 45年)に合併、新日本製鉄(新日鉄)となった。


(82) レフ・ダビドビッチ・トロッキー (1879―1940)

ロシアの革命家。
ウクライナ生まれのロシア系ユダヤ人。
早くから革命運動に入り、シベリア流刑のあと脱走、1902年に英国に亡命、レーニンと出会う。
1905年、第一次ロシア革命ではペテルブルグ・ソビエト議長に就任するが、革命に失敗し、逮捕され流刑。
再び脱走し、ウィーンに亡命。
第 1 次大戦中は反戦派になり一時、米国へ渡るが、1917 年にロシア 2月革命が起きると、帰国。
レーニンに説得され、ボリシェビキ派に入り、10月革命を指導。
その後、軍事人民委員となり、赤軍の設立、強化に尽力。
レーニンの死後、スターリンとの対立を深め、1925年には軍事人民委員を解任され、党除名の後、1929年に国外追放処分。
トルコ、フランス、ノルウェー、メキシコと世界を転々としながら、スターリン・ソ連批判、ナチズム批判など積極的な執筆活動を続ける。
1940年 8月、メキシコの自宅書斎で、スターリンの手先に暗殺された。
永久革命論の主唱者であり、著書に『わが生涯』『ロシア革命史』『裏切られた革命』など。


(83) ロマノフ王朝

1613年から 1917年までロシアを支配した王朝。
ピュートル大帝とエカテリーナ大帝によって、専制政治を中心としたロシア帝国の基礎ができた。
最後の皇帝は 18人目のニコライⅡ世。
1891年、皇太子時代に日本訪問中、警備の巡査に切りつけられる(大津事件)。
1894年に皇帝に即位し、極東への拡張を図るが、日露戦争(1904年―1905年)で頓挫。
国内の社会不安も高まり、1905年に第一次ロシア革命が起きると、議会を開設したが、専制にこだわり、議会と対立した。
さらに皇后と神秘主義者の怪僧ラスプーチンのスキャンダルなどもあり、皇帝の権威は低下。
1914年に第 1 次大戦が勃発すると、さらに社会不安は増幅され、1917年には 2月革命が起こり、3月に退位、ロマノフ王朝は途絶えた。
10月革命後は、革命政権によってエカチェリンブルグに移送され、1918年、反革命軍との戦いが激化するなかで、ニコライⅡ世は皇后、子供とともに処刑された。


[ー(長音記号1)][ー(長音記号1)][ー(長音記号1)][喫茶店]
ちょっとおしゃべり

やっぱり落語の八つあん熊さんみたいでしたねえ、日本の陸軍と海軍 [ふらふら]
少しは話に聞いていましたけれど、やっぱり本当だったのかと・・・(言葉にならない)

それから 64年。
全ーーー然、変わってませんねえ、生物の性質というものは。

私はよく雑草を引き合いにするのですが、雑草にも目があるとしか思えない、例えばほうれん草の葉っぱとソックリの葉っぱの雑草が、ほうれん草畑に生える。
うっかり見過ごすと、その雑草はほうれん草の肥料を食って生い茂り、ほうれん草を枯らしたり、育たなくしたりする。

雑草ですらそうなのですから、人間に至っては語るに落ちる生物の生態。
貧弱なほうれん草と、立派な雑草を見比べていると、共存共栄なんて、絶対に有り得ないと思えるのです (^^;



BLUE MURDER ~ Valley Of The Kings (1987 )


WHITESNAKE という超有名なバンドがあります。DEEP PUEPLE からデビューしたディヴィッド・カヴァデールという、超一流のボーカリストのソロバンドとも言えるバンドです。

やはり世界でトップレベルになるような人は独裁になりやすい(笑) 

で、デビカバはどちらかというとブリティッシュ・ブルーズ系ですから、コアなファンはいても、また、デビカバのセクシーさに魅せられる女性ファンなどはいても、きゃあきゃあ騒がれるポップ性は無かった。 

それが 1987年発表のアルバムで、俄然、ファン層を拡大したのですが、そのアルバムの大半の曲を作曲し、演奏したのが、この BLUE MURDER のジョン・サイクス(vo & g)でした。

ジョン・サイクスは、この映像で分かるように、抜群のギター演奏、そして華麗な金髪、しかもイケメンです(笑)ひょっとしてコンサートに出たら、デビカバは食われてしまうかも知れない・・・そんな危惧を感じたデビカバの当時の奥さんの助言(?!)などがあって、デビカバは、ジョン・サイクスが知らないうちに、彼をクビにしてしまったのです。

その確執が、ずぅーーーーーっと続いたまま現在に至ってるわけですが、なぜそんなにも拘っているのかというと、デビカバの仕打ちに憤慨したサイクスは、即座に自分のバンドを結成しました。

それがこの BLUE MURDER なのですが、そのメンツが凄すぎる。 カーマイン・アピス (ds) と トニー・フランクリン (b) という超一流のビッグ・アーティストです。

当然、そのデビュー・アルバムは素晴らしいもので、大ヒット間違いなしのものでした。
ところがそこに、またもや邪魔が入ったのです。デビカバとジョン・サイクスは同じレーベル。あとは語らずもがなです。

そういった経緯もあって、この素晴らしいプロジェクトは、アルバムを 2枚半(?)出して、中断となりました。 

その後、ジョン・サイクスは大好きだった THIN LIZZY を、再結成のような形で継続させてコンサート活動をしていましたが、そのライヴ・アルバムぐらいでは、サイクス・ファンにとって非常に物足りない。

もう、SYKESというソロ・バンドのアルバムでさえ、9年も発表されていない・・・




この記事は2009年12月7日保存の再投稿です。
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