◆ 敗戦真相記 (10) 米英中ソ、4カ国の行方を見る 


BUCKCHERRY ~ Rescue Me (2008)


永野護著敗戦真相記
2002年7月15日発刊


米英中ソ4カ国の行方を見る


しかし、『ポツダム宣言』は、各条とも抽象的に原則を示しているにとどまり、具体的問題の処理については何も求めていないから、実際の運営にあたってはどうなることやら見当のつかない点が非常に多い。しかし、この『ポツダム宣言』の具体的運用ということは、米国、英国、支那(中国)の 3国の他に、後からこの宣言に参加したソ連の出方いかんによって決まるわけです。それ故に、この 4国が日本に対してどんな感じを持っているかが、この問題解決の上に非常に大きな影響を与えることになってきます。


もちろん、これは、相手方の気持ちを想像することだから本当のことがわかるはずはないのですが、ちょうど碁の定石のようなもので、自分の打った石に対する相手の応手はだいたい見当のつくもので、そんなに奇想天外的な裁き方があるわけのものでない。そういう意味で、日本に対して連合国側の打つ手はほぼ予測し得るともいえましょう。




そこでまず、以上の 4国の中で日本に対して最も重大なる発言権を持っているアメリカの対日感情はどうかということですが、この問題を考えるには、まず判断の頭を今から 45年前にふりかえす必要があると思います。45年前というと日露戦争前の世界情勢です。当時、帝政ロシアは、シベリア東漸(とうぜん)の余勢を馳って満州に進み、朝鮮半島に入り、龍岩浦に相当の根拠地をつくって、太平洋を窺い出したのです。一方、アメリカの急速な産業の発達は、その製品の販路としての東亜市場の確保を必要としますから、このアメリカの門戸開放主義と、帝政ロシアの東亜進出主義とは、相容れない必然的形勢を馴致(じゅんち)しつつあったのですが、それでは、この両勢力の中間に介在した日本の立場はどうかといいますと、これは、ロシアの火がすでに隣家の朝鮮にまで燃え移っているのですから、これを袖手傍観(しゅうしゅぼうかん)してはいられない。これが、いまから 45年前の東亜の情勢であります。


しかし、当時の帝政ロシアは世界最強の陸軍を謳われた大帝国であり、これを向こうに廻して小日本が戦を挑むということは、(92) 暴虎憑河ぼうこひょうか以上の無謀なことと自他ともに判断していたので、我が政府当局は容易に戦争の決意をなし得ず、伊藤(博文)公のごときは、いわゆる朝鮮二分案という妥協案まで作成して、日本は、京城(ソウル)以南を勢力範囲とする代わりに、露国には平壌(ピョンヤン)以北を与えて協定しようとしたのですが、結局、大勇猛心を振って戦火を開くに至った裏面には、アメリカの門戸開放主義が、日本の東洋平和の国策のための有力な後楯になってくれるという、心強さがあったからだともいえましょう。また実際、日露戦争継続中は、アメリカは英国とともに、陰に陽に日本のために最大限の好意を示し、最後に (93)『ポーツマス条約の締結まで斡旋して、日本をして有終の美をなさしめたことは世界周知の事実です。


ところが日露戦役後、日本の勢力は急速に強大となり、帝政ロシアに代わって東亜各市場を独占する傾向を示し、アメリカの門戸開放政策に暗い影を投ずるに及んで、米国の親日感情は急速に冷却しました。そして、ついに満州事変が勃発するに至って、覆水盆に返らず、大東亜戦争という最悪の結果まで発展していったのです。しかし終戦後の今日、すべての軍国的桎梏(しっこく)から解放せられて、日本国民が自由に冷静に世界の大勢を達観するときに、再びこの、アメリカを向こうに廻して戦争を繰りかえすがごとき愚を考えるのは、恐らく日本国中誰一人もないと言い得ましょう。そうしてみると、この日本国民の真実の親米感情は、必ずや清水が砂を通してしみ出るように、米国人に反映するに相違ありません。


一方、45年後の今日の東亜の実情はどうかというと、奇しくも伊藤公案の朝鮮二分統治が、アメリカとソ連によって実行されている現状です。もちろん、侵略主義の帝政ロシアと、勤労者デモクラシーのソビエトロシアとは、素朴的な類推を許しませんが、ともかくこのソ連の発展力は帝政ロシアに数倍し、例えば 45年前のロシアは、(94) ピーター大帝以来の国是たる凍らざる港を求めて地中海に出ようとする運動が、ドイツの鉄の鎖でガッチリ食いとめられて、やむを得ず東方に国力の捌(は)け口を求めてきたに過ぎませんが、今日のロシアは、前述のごとく東亜に発展するとともに、欧州方面においても宿願の (95) ダーダネルボスポラスはおろか、欧州の中原のドイツがちょうど朝鮮のようなところに置かれ、ソ連の呼吸がドーバー海峡を越えて、イギリスの頭の上に感ずるような勢力分野を示しています。そうしてみると、ロシアと米英とは、45年前に較べて欧亜方面において、はるかに切実な接触関係に進んでいるというべきでしょう。


もちろん、(96) トルーマン大統領の 12原則に示された平和維持のために、連合国と如何なる場合も全面的に協力せんとするアメリカの決意を知る我々は、米英とソ連の相剋というような暗い予測図に将来の運命を賭けるもので断じてなく、むしろ我々は、連合国の間隙を衝(つ)こうとして、かえって自らの不幸を深刻ならしめたドイツの例を、知り抜いています。帝国主義的な考え方に終わりを与えしめよ。これが今度の大戦争の教訓であり、今日においてなお帝国主義的な考え方において日本の再建を夢想する者は、この戦争の教訓を忘れたものといい得ましょう。


しかし、たとえ戦破れたりといえども、東洋の平和を希求するのは、日本国民の変わらざる願いでありますから、この点は恐らく、45年前と同じく、アメリカの理想と一致すると思いますので、私はいろいろな意味においてアメリカは、
「日本が 『宣言』 に忠実なる限り、何とかして立ち行くようにしてやろう」
という、『ポツダム宣言』の趣意を履行してくれるものと確信しております。




次は英国です。この国の態度は最も予測しやすい。私は子供のとき、日英両国の旗を振りながら、(97) 日英同盟万歳、万歳、といって街を飛び回った記憶がまざまざと残っていますが、当時の日本人は英国に対して本当に親類のような親しみを持っていたのです。だから第 1 次世界大戦後、永年の日英同盟の解消を余儀なくされたときには、日本人はいっせいに一種の物淋しい感に打たれましたし、英国側にも、思い切れない未練が多分に残っていたと想像されます。いわば飽きも飽かれもしない夫婦が、義理にからまれて夫婦別れをしたようなものですから、その後も、ともすると焼けぼっくいに火がつこうとしたのです。


その焼けぼっくいの一番著しい例は、(98) ビルマートの封鎖が挙げられるでしょう。支那事変以来、英国は幾度か(日中)両者の間に立って調停の労をとろうとし、そのためには、ビルマルート封鎖というような強制手段すらとってくれたのです。当時の日本の朝野は、この英国の誠意ある調停を、むしろ冷笑的に取り扱っていたのですが、蒋介石からいえば大変なことであった。すなわち、海岸はみな日本軍にとられてしまって、陸上唯一の輸血路であるビルマルートを閉ざしたのだから、重慶(蒋介石政権)側が、これは公正なる仲介人の態度でないと憤慨するのは当然です。そういう猛烈な抗議が出たにもかかわらず、イギリスは敢然としてビルマルートを押さえ、日支(日中)の和解を慫慂(しょうよう)したのですが、思い上がった日本の軍部は、ドイツの策動に乗ぜられて、このイギリス妥協案を退けたから、日本は今日のような不幸な結果になった。


過ぎ去った繰り言ですが、もしも、あのときにイギリスの差しのべた手を握っていたならば、日本は今日、どのくらい栄えた国になったかわからない。恐らく日本の立場は第 1 次大戦のときと同じような、幸運の国となり得たでしょう。しかも日独伊三国同盟を脱退すべき理由は、ドイツはロシアと戦争せぬといっておきながら、日本に一言の諒解もなく対ソ侵入を開始したことによって充分立ち得たのです。なるほど、イギリスは日本に対し、支那からの撤兵を求めた。我が国の真相指導者たちが国辱を口にして、イギリスの妥協案を蹴ったのは主としてこのためですが、しかし何故に支那から撤兵することによって、泥沼に足を踏み入れたごとき支那事変に終結を与えてはならなかったのか、もし当時、日本が支那から撤兵していたとすれば、日本は果たしてその独立を傷つけ、生存の道を失っていたでしょうか。


米英ソ独のごとき世界の大国が、国を挙げて生きるか死ぬかの大戦争に押しこまれているときに、日本が支那と和平し、一切の産業能力を挙げて外国貿易に従事していたならば、今日の日本はそれこそ昇る朝日のような国運になって、本当に「御民我れ生けるしるしあり」というような生活ができるようになったと、いまさらのごとく死児の齢を数えたくなるのですが、如何でしょうか。


英国のもう一つありがたいことは、日本の皇室に対して非常に好意を持っているということで、『ポツダム宣言』においても日本の皇室の廃止ということに一言も触れない大きな原因は、イギリスが陰に陽に尽力してくれたからだと思われる節があります。これは、英国自体の国情が皇室制度の存続と大きな関係があるので、あの多数の自治領が、イギリスの皇室という 1 つの綱で繋がっていることは周知の通りです。今日、国らしい国で皇室制度のあるのは、日本とイギリスだけになってきた。これが、イギリスの政治家が日本の皇室の存続ということに細心の注意を払う、現実の理由でしょう。こういういろいろな事情からいって、将来、この『ポツダム宣言』の運営にあたり、まずイギリスの 1 票も、日本側が『ポツダム宣言』に忠実な限り、好意的に投ぜられるだろうと思われます。




第3は支那(※現在の中国ではない)です。私は支那に対する日本人の国民感情ぐらい、この大東亜戦争の前後によって大きな変化を起こした例は他にないだろうと思います。事実、日支間の紛争の禍根は、あげて支那民族に対する日本人の優越感にあったといって差し支えないぐらいに、8年間にわたって支那大陸を鉄蹄下に踏みにじっていたのですから、一度日本に勝ったとなると、思う存分、日本人を打ちのめして痛快感を味わうという気持になるのは、支那人としてこれは当然の感情といえましょう。


だから我々は、一度負け戦になったが最後、300万の支那派遣軍の何割が生きて故郷の土を踏めるかとまで心配していたのですが、8月 15日、終戦に際してなした蒋介石の演説は、まさに我々のこの誤れる支那観に冷水 3斗を注ぎかけたように感じられるほど、堂々たるものであった。私は、この蒋介石の大演説を読んだとき思わず「参った」と口走ったほど大きな感銘を受け、そして、久しく日本において探し求めて求め得なかった、本当の大政治家の姿を発見したような気持になりました。蒋介石はその演説のなかで次のように申しています。


「同胞諸君、今や我々の頭上に勝利の栄光が輝くに至った。永い間、到底、筆舌に尽くし難い凌辱をうけながらこれに屈せず、よく戦い抜いた諸君の労苦によって我が敵は遂に我が軍門に降ったのである。我が中国人があの暗黒と絶望の時代を通じて、忠勇にして仁慈、真に偉大なる我が伝統的精神を堅持したことに対し、まさに報償を受くべき時機が到来したのである。しかしながら我々が終始一貫戦った相手は日本の好戦的軍閥であって、日本国民ではないのであるから、日本国民に対し恨みに報いるに恨をもってする暴を加えてはならない。


民族相互が真に相手を信じ合い、尊重し合わなければならないということを腹の底から悟ることが、この戦争の最大の報償でなくてはならない。これによって今後、土地に東西の別なく、人間に皮膚の色の別なく、あらゆる人類は一様に兄弟のように平和に暮らすことができるものと信ずる。自分はいまさらのごとく、『爾(なんじ)の敵を愛せよ』、『爾ら人にせられんと思うごとく人にしかせよ』と、訓(おし)えられたキリストの言葉を想い出すのである。もしこれに反し、暴に報いるに暴をもってし、奴辱に対するに奴辱をもってしたならば、冤と冤とは相報い、永久にとどまるところを知らないであろう。こんなことは決して我々正義の師の目的とするところではないのである。我々は単に敵国人をして己の犯した錯誤と失敗を承認せしむるばかりでなく、さらに進んで、公平にして、正義の競争が彼らのなした強権と恐怖による武力競争に比べて、いかに真理と人道の要求に合するものであるかということを承認せしめなくてはならない。換言すれば、敵を武力的に屈服せしむるばかりでなく、理性の戦場においても我々に征服せられ、彼らに懺悔(ざんげ)を知らしめ、これをして、世界における和平愛好の一分子たらしめなければならない。この目的を達成したとき初めて、今次大戦最後の目的が達せられたことになるのである」


蒋介石のこの言葉を聞いて、いやしくも良心ある日本の軍閥、政治家にして愧死(きし)しないで済む人が幾人あるでありましょうか。私はさっき申した通り、万一敗戦の場合、在支(中国在住)幾百万の我が同胞が、いかに残虐な目にあわされるであろうかということを考えると、戦争中もときどき身振いするのを禁じ得なかった。この蒋介石の演説を読んで、まことに救われたような気持になり、思わず合掌したのです。事実、終戦後の実情を見ますと、私たちが憂慮したような悲惨な復讐的場面はどこにも起こらなかったのです。もちろん、あの広大な支那全土にわたる交戦地域のことですから、この蒋介石の親心の浸透せざるところにおいて、多少の不祥事が起こったことはあり得ると思いますが、大局においては、この蒋介石の打った手はまさに 100% の効果を上げていると私は信じます。しかも、この蒋介石の演説は、決して利益や体裁から出たのではない。アメリカやイギリスの持つ対日好意とは、また別に、同じ東亜の民族であるという肉親の情愛が、演説の底のほうを脈々と流れているのを我々は感ずるのでありまして、この蒋介石の大精神の厳然として存在する限り、『ポツダム宣言』運営の場合においても日本生死の問題に対しては、支那の 1 票は我々に好意的に働いてくれるものと期待して差し支えないと信じます。




最後に残ったのがソ連です。これが実に予測の難しい 1 票です。元来、ソ連の外交が徹底した現実外交であり、ソ連の親友たらんとするためにはまず自分の力を養い、ソ連をして一目置かしめるだけの実力を備えなければならないといわれているのですが、その意味で今日の小日本がその実力の故をもっては、ソ連の親友たり得る資格のないことは自明のことでしょう。特に、日本に対する宣戦の経緯から、終戦後、満州、北朝鮮、樺太などにおけるソ連の態度には、情報不充分のせいか我々にはまだ理解できない点が多く、このままで推移するとなるならば、『ポツダム宣言』の実行にあたっても如何なる事態が発生するのかと懸念しているものは恐らく筆者一人ではありますまい。


以上、米国、英国、支那、ソ連、 4 カ国の日本に対する気持ちを測って、『ポツダム宣言』 運営の方式を想像した結果、私は日本の将来の政治、経済、民生はだいたい次のような形のものとなると、ほぼ予測しております。



永野護著敗戦真相記
―目 次―

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人物・用語解説


(92) 暴虎憑河ぼうこひょうか

虎を素手で打って、黄河を徒歩で渡るという意味で、命知らずのことをすること、血気にはやること。


(93) ポーツマス条約

1905年(明治 38年) 9月 5日に締結された日露戦争の講和条約。
米国大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋によって、ニューハンプシャー州ポーツマスで日本の主席全権、小村寿太郎とロシアの全権ウィッテが調印した。
満州、韓国の権益を確保、北緯 50度以南の樺太(サハリン)の領有権を得たが、賠償金がないことなどで国民の不満は強かった。(「日比谷焼打ち事件」を参照)


(94) ピーター大帝 (1672―1725)

ロシア皇帝、ピュートルⅠ世のこと。
1682年に即位。
英国、オランダなどを視察、西欧の技術、科学、文化をロシアに導入、教育機関の設立、科学の振興、産業の育成、軍の近代化など富国強兵政策を進めた。
1698年にロシア最初の海軍を創設、オスマン帝国からアゾフ要塞を奪い、アゾフ海の制海権と黒海への出口を確保。
1700年から 1721年にわたるスウェーデンとの北方戦争では、新たに創設したバルチック艦隊と近代化した陸軍の軍事力によってバルト海への進出に成功、欧州の大国として国際的地位を高めた。
その後もカスピ海沿岸に領土を拡大、東方への展開に関心を持った。
1721年に皇帝を名乗り、ロシア帝国の建設者となり、絶対主義国家化を推し進めた。
過激な改革と重税のために民衆の反乱も相次いだ。


(95) ダーダネルボスポラス

トルコ北西部にあり、欧州とアジアを分断する海峡。
ダーダネルはエーゲ海とマルマラ海を結ぶ海峡で、ボスポラス海峡を経て、黒海へとつながる。
ダーダネル、ボルポラスは、ロシアからみると黒海から地中海へ進出するための交通の要衝で、軍艦の通航権をめぐっては、18世紀から 19世紀にかけてはオスマン帝国との間で、19世紀から第 1 次世界大戦にかけては黒海にロシアを封じ込めようとする英国との間で対立が生まれた。


(96) ハリー・S・トルーマン (1884―1972)

アメリカ合衆国第 33代大統領。ミズーリ生まれ。
第 1 次大戦に従軍後、民主党に入り、郡判事を経て、1934年に連邦上院議員。
1945年 4月、ルーズベルト大統領の死去により副大統領から昇格。
ポツダム宣言、原爆の投下など戦争終結と戦後処理にあたる。
1947年には、ソ連に対する封じ込め政策といえる「トルーマン・ドクトリン」を打ち出し、西欧経済復興援助のために「マーシャル・プラン」を展開、軍事面では 1949年に NATO(北大西洋条約機構)を結成した。
内政面では、ニューディールの継承・発展をめざすフェアディールを提唱。
1948年に大統領に再選され、1950 年からは朝鮮戦争に国連軍として参戦。
中国への戦争拡大を主張するマッカーサーを 1951年に国連軍司令官などから解任、休戦への道を開いた。
1953年 1 月に任期満了で大統領を退任し、政界を引退。


(97) 日英同盟

日露戦争前の 1902年(明治 35年)、帝政ロシアのアジア進出に対抗するために締結された日本と英国の軍事同盟条約。
日本は英国の清国(中国)に対する権益を、英国は日本の韓国に対する権益を認め、日英いずれかが第三国と戦争状態に入ったときは、中立を守ることなどが盛り込まれた。
日露戦争後、日本、ロシア、英国の関係も変化し、同盟が牽制する対象はロシアからドイツに変わり、修正が加えられながら、同盟は延長された。
1914年(大正 3年)の第 1 次大戦参戦は、日英同盟上の義務を理由に行われたが、大戦後、アジア太平洋地域の権益をめぐり日本と英米は対立。
太平洋に保有する日米英仏各国の領土の現状維持などを定めた四カ国条約の締結に伴い、1923年(大正 12年)に日英同盟は失効した。


(98) ビルマート

『支那事変』(日中戦争)中、中華民国に対する支援諸国からの補給ルート。
蒋介石率いる国民党政府(中華民国)は 1937年(昭和 12年)に首都・南京が日本軍に占領されると、中国西南部の中核都市、重慶に本拠を移し、(反政府の毛沢東の中国共産党が休戦して政府軍に加わった)抵日戦を継続、これを支援するために武器・弾薬などの物資を外国から運び込むルートがつくられた。
蒋介石政権(中華民国)支援ルートということで、日本側では「援蒋ルート」と呼んでいたが、これには、ビルマルート、仏印(フランス領インドシナ)ルート、沿岸ルートのほか、ソ連から西安に至る西安ルートなどがあった。
日本は重慶攻略のために、1940年(昭和 15年)、英国に英領ビルマ経由のルートの閉鎖を要求、英国は同年 7月から3カ月間、ルートを閉鎖した。
『大東亜戦争』(第 2次世界大戦・太平洋戦線)の開戦後、1942年(昭和 17年)に日本軍がビルマに入ってからは、インドルートが開設された。


[ー(長音記号1)][ー(長音記号1)][ー(長音記号1)][喫茶店]
ちょっとお喋り

しようと思ったのですが、溜息しか出ません(^^;




この記事は2009年12月10日保存の再投稿です。
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